ハンセン病について学んだ話:東村山編その1
この旅もあっという間に15日目
群馬の山の上ではまだ桜が楽しめます。
この記事が4記事目なので、三日坊主の大きな壁は超えた(と思いたい)高室です。
4/25から4/30の6日間、東京の東村山市に滞在していました。
今回はそこで感じたことについての記事です。
ブログってどんなテンションで書けばいいのかまだ分からず、文体が定まっていません。
楽な書き方を模索するため、今回はである調にしてみよう。
多摩全生園に行ってきた
4/26と4/27で、東村山にある国立療養所多摩全生園に行ってきた。
園内の食堂の人手が足りないということで、お手伝いするためだ。
全生園ではハンセン病の後遺症を持つ人が入居しており、診療を受けながら偏見や差別のない環境で生活している。
とても広い敷地のなかに生活に必要なほとんどの施設が存在している。
ハンセン病とは
つい先日までの僕のように、ハンセン病について何も知らないという若い世代の人もいると思うので、簡単に説明を引用する。
ハンセン病はらい菌による経過の慢性な感染症です。感染しても発症するとは限らず、今では発症自体がまれです。また万が一発症しても、急激に症状が進むことはありません。初期症状は皮疹と知覚麻痺です。治療薬がない時代には変形を起こすことや、治っても重い後遺症を残すことがありました。そのため、主に外見が大きな理由となって社会から嫌われてきました。現在では有効な治療薬が開発され、早期発見と早期治療により後遺症を残さずに治るようになりました。
(国立ハンセン病資料館HPより引用 http://www.hansen-dis.jp)
現代の日本のような生活においてはまず感染することはないようだ。
全生園の患者さんも大半は後遺症の診療を受けている方で、新規感染や再発を含めて今もなお治療している患者さんは日本に10人程度だという。
食堂で働きながら何人かのお客さんと話をしたが、どの入居者の方も心優しい方ばかりであった。
過ちの歴史が認知されなくなることの怖さ
全生園の敷地内には国立ハンセン病資料館があり、休憩時間をつかって見学をしてきた。
驚愕したのは、戦争が始まって以降の、ハンセン病患者へのあまりにもひどい扱いだ。
文明国には癩(らい:ハンセン病の古い呼び名)は国の恥だと差別された。
戦争に貢献できない体の弱い者であることからも差別された。
1931年、ハンセン病の治療法が確立されていなかったこの時代においては患者を隔離するのが有効とされており、患者を強制的に隔離しようという思想のもと「癩予防法」が制定された。
療養所に隔離された患者は非常に劣悪な環境での生活を強いられ、きつい労働に従事させられた。
その前後には、警察も動き社会ぐるみで患者を駆り立て療養所に隔離しようという「無癩県運動」が全国に広まった。
国がこのように大きく動いたことも、国民にハンセン病への恐怖心を植え付け差別を強くさせた要因のひとつだろう。
終戦後にはハンセン病に有効な治療法が発見されたにも関わらず、強制隔離による対策は続いた。
1953年には患者が働くことや療養所入園者の外出も禁止された。
やっと らい予防法が廃止されたのは、1996年になってのことだった。
印象に残ったエピソード:見せしめ的な消毒
(5/4追記)
資料館で学んだことの中でとくに印象的であったのは、無癩県運動においての強制連行の方法についてだ。
官も民も一緒になって患者をしらみつぶしに探し出し、見つかった患者の家には、白い予防服と長靴を履いた役人たちがやってくる。
彼らに療養所まで強制的に連行されるのだが、患者が歩いた跡を真っ白になるまで消毒しながら移動したという。
さらに患者の家までも真っ白に消毒されたそうだ。
このような扱いを受けると、あそこの家はハンセン病患者が出たと村じゅうに知れ渡り、強く差別された。
家族は患者を必死に隠したそうだが、少しでも疑いがあると周りの住人から役人に通報されるのだ。
社会全体が敵になる恐ろしさと、見せしめのように周りに晒されることの残酷さを思うと、とても辛く感じた。
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一連のハンセン病の歴史とそのむごさを現実感を持たせて説明するのは極めて難しいので、少しでも多くの人に、一度ハンセン病資料館に足を運んでもらいたい。
僕はなにより、この歴史を強く認知していなかった自分が恐ろしかった。
僕ら以降の世代には、学校の教科書には軽く出てくるものの、ハンセン病について知る機会がとても少ない。
お世話になった食堂のおばちゃんが「このままだとハンセン病の歴史は忘れられていくだろうね」と言っていたのが、とても悲しかった。
ひどく人権を侵害された多くの患者の方たちの苦しみを、なかったことにしたくない。そこから学びを得て、同じようなことが再発しない社会にしたい。そう思った。
ハンセン病が文化遺産になるかもしれない
食堂のお手伝い2日目に運良く、ユネスコの方、ハンセン病の国際機関の方と全生園の入居者の方達の英語通訳を介した対話の場に、同席することができた。
彼女らは今、日本の国立ハンセン病療養所を世界文化遺産に登録しようと動いているらしい。
詳しい内容について言及するのは避けるが、両者ともとても時間と熱量をかけ、通訳の方が追いつけなくなるくらいの密度で対話していた。
たくさんある療養所のいくつかをピックアップして文化遺産に登録するのはどうかという懸念に対しユネスコの方は、「ある1点にまず光を当てることで、他の点にも注目が及び、議論が起こるきっかけにしたい。」と話していた。
特に全生園には、出産を禁じられていた患者の方達が、代わりに何か未来に残せるものをつくろうと1本ずつ植樹した、「人権の森」が象徴的だという。
過ちの歴史を後世に伝えるという難しい課題に対し、とても素晴らしい取り組みだと思う。
また全生園を含めた公立の療養所は、その象徴にふさわしいと思う。
今後の動向に期待したい。
自分個人としても少しでも周りの人にハンセン病への認知を広げるようなことをしていけたらと思うし、この記事も多くの人に読んでもらえると嬉しい。
(蛇足ですがこの出来事は生きた英語を聞く楽しさを思い出し、ちゃんと勉強し直そうと思えるきっかけになりました…。)
今日中に新潟入りを目指して進みます〜